旅の物語

永遠のカヌー

第14回・完 カナダとともに永遠に

オンタリオ州・アルゴンキン州立公園

先住民が白樺の樹皮から生み出した最高傑作、バーチ・バーク・カヌー。常に進行方向を向いて急流も浅瀬も巧みに進み、陸上では人が肩に担ぐ「ポーテージ」によって、さらに遠くへと移動できる。

既に説明したように、このスグレモノの移動手段はやがて、ヨーロッパ人によるビーバーの毛皮交易に使われるようになった。


1度により多くの毛皮を積めるように白樺のカヌーは巨大化し、やがて最大で約10メートル、3トンもの積荷を運べるようになった。
この写真は、毛皮交易の主要ルートのひとつ「フレンチ・リバー」のビジターセンターに展示されていた巨大カヌーの骨組みだ。真下に立ってもらった職員の方と比べることで、その大きさを実感してもらえるはずだ。
こうした大型のカヌーは狭い河川ではなく、大動脈である広い川を行き来した。大都市モントリオールと別の交易拠点を結んでいたことから「モントリオール・カヌー」と呼ばれた。

やがてビーバーは捕り尽くされ、毛皮交易は衰退していく。同時にカヌーは、僕らがイメージするような本来の大きさに戻ることになった。
ビーバーの毛皮交易が、カナダの国づくりに経済エンジンとして大きな役割を果たしたのは事実だが、ビーバーを殺す行為のすぐそばに我らがバーチ・バーク・カヌーがあるのは何ともやるせないことだ。
だからカヌーが本来の大きさに戻ったのは本当に喜ばしいし、今は誰もが楽しめるアクティビティとしてカヌーは世界中の人に愛されている。


Nashさんのバーチ・バーク・カヌーづくりは、博物館から依頼されて昔のカヌーと同じものを作ったり、展示品の古いカヌーの修繕が多いと聞いた。
確かに工房で納品を待つカヌーの艇首には「NW」の文字が刻まれていた。「NW」とは、毛皮交易でハドソン湾会社としのぎを削った「ノースウエスト会社」だ。1750年代の同社のモデルを再現している。
ただし、カヌーももう元の大きさに戻ったのだ。「NW」とかハドソン湾会社の「HBC」が書かれたカヌーは、博物館の中にありさえすればいい。


Nashさんはアメリカの出身で、カナダの先住民の血を引いているわけでもない。
大学に行くつもりが徴兵でベトナム戦争に行き、戦後、ニューヨークでカメラマンになり、取材を通じてバーチ・バーク・カヌーと出会った。そしていつしかカヌー・ビルダーになったらしい。


「らしい」というのは、いくら質問しても詳細が分からなかったからだ。いわゆる「職人」的な仕事へのこだわりとか、カヌーへの愛とか、いつカメラマンではなくカヌー・ビルダーになる決心をしたのかとか、いくら聞いても原稿にしやすい気の利いた答えは返してくれなかった。


試しにこんな質問もぶつけてみた。
「自分がつくったバーチ・バーク・カヌーに乗ってみたいとは思わないのか?」
すると「ブーッ」と吹き出すように口を鳴らしたあと、Nashさんはニヤニヤしながらこう言ったのだ。
「水道局の人間が、自分が工事した水道から出る水を飲みたいとか、そんなこと思うか?」


その答えは照れのようでもある。また、こんな個性的な人だからこそ、バーチ・バーク・カヌーにのめり込んだような気もする。
そうしているうちに僕も、バーチ・バーク・カヌーづくりの技術が継承されるかどうかなんて、どうでもよくなってきた。いや、もちろん継承されてほしいのだ。
しかし、カナダの大地で生まれたカヌーはいまや全世界に広がり、レジャーに、スポーツに、ビジネスにと使われている。すべてのオープンデッキのカナディアン・カヌーの基本構造はバーチ・バーク・カヌーと何ら変わらない。
僕らはいまだ先住民の知恵を超えることができていない。だから世界中のカヌーの中に、バーチ・バーク・カヌーは生き続けていると言っていい。



カヌーはカナダとともに永遠にある。そして、誰もがちょっとその気になりさえすれば、カヌーはあなたのすぐ近くにきっとあるのだ。
パドルを手に、どこまでもどこまでも、この広大なカナダを行くカヌーの旅に漕ぎ出してみてはどうだろうか。きっとあなただけの「カヌー探検」が待っていると僕は思うのだ。(終)
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シリーズ「永遠のカヌー」は2015年の取材に基いています。

しあわせ写真

アルゴンキンでのキャンプの思い出

トム・トムソン・レイクの湖畔にテントをはり、焚き火をしながら真っ暗な夜を過ごした。ガイドさんに勧められて「ワオー」っとオオカミの鳴き声をあげた。時にオオカミが仲間かと思って鳴き声を返してくるんだそうだが、残念ながら僕への返事はなかった。普段の僕なら、日本にいたなら、オオカミの鳴き声をまねるなんてことはしないと思う。ここは自由になれる場所だと思う。