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ムラカミ・ハウスの話

ブリティッシュコロンビア州 スティーブストン

バンクーバーの南にスティーブストンという漁港がある。かつてここにはサーモンの缶詰工場があって、太平洋を渡ったたくさんの日本人が出稼ぎとして、あるいは結果的に移民として働いていた。「かつて」、というその始まりは100年以上前、明治時代のはじめのころだ。スティーブストンやバンクーバーで暮らし始めた日系人や2世らは、やがて太平洋戦争の勃発によって「敵性外国人」としてつらい目に遭うのだが、そんな歴史を含めて、いろいろなことを感じさせられるのがスティーブストンという町なのだ。

スティーブストンはロッキー山脈に端を発するフレーザー川の河口にあって、毎年無数のベニザケが産卵のために押し寄せてくる。目指すは500キロ上流の故郷の川。だから河口にはサーモンの缶詰工場が林立していたのだ。そんなうわさを遠く日本で聞きつけ、多くの日本人が仕事を求めて海を渡った。男たちはサーモン漁に、女たちは缶詰工場での過酷な労働に従事した。スティーブストンの「ムラカミ・ハウス」は、そんな日本人の中のひとり、村上音吉(むらかみ・おときち)という人物と、その家族が暮らした家や、漁船づくりの作業場などを見学することができる施設だ。

村上音吉氏がカナダに渡ってきたのは1908年。展示されていたパスポートには、「廣島縣(広島県)御調郡田熊村」という住所が記載されていた。調べてみると瀬戸内海の因島にあった村のようだ。村上音吉氏はその苗字からして、かつて瀬戸内海を制した誇り高き「村上水軍」の末裔なのかもしれない。彼はスティーブストンで漁師、そして船大工として働いた。音吉氏ら日本の船大工の知恵によって、スティーブストンの漁船はそれまでと違い、乗員室のある居住性の高い船に改善されたというし、この地で暮らした日本人が始めた保険は他の国の人も加入できたから、その仕組みはカナダで最初の医療保険とも言われているそうだ。

ムラカミ・ハウスは、家族の幸せな生活の名残で溢れていた。子どもたちが遊んだであろうローラースケート。ベッドカバーには家族みんなの名前が記されていた。音吉氏は冬の間に2艘の漁船をつくり、1つは売り、もう1つを自分の漁に使った。音吉氏が自分の船につけた名前が「Chiyoko」。「真面目で笑わない」と言われた海の男が選んだのは、10人いる子どもの末娘の名前だった。しかし1941年、日本軍の真珠湾攻撃で日本とカナダは戦争状態に陥る。「敵性外国人」となった日系人はすべての財産を没収され、内陸部の強制収容所へ送られた。家族の幸せも、カナダ社会への貢献も、新天地での夢も、すべてが否定されたのだ。

戦後の音吉氏はと言うと、二度と船を造ることはなかったと聞いた。理由を想像することは簡単のように思うが、安直な想像もしたくはない。ムラカミ・ハウスには音吉氏の妻あさよさんが100歳の時、大勢のファミリーに囲まれた写真が飾られていた。コロナウイルスによって、人種差別とか対立とか、そんな風潮が広がっている気がしてならない。日本人が虐げられたという話をしたいのではない。今もなお互いに差別し、差別され続けている。同じ過ちを繰り返してはならないと思う。互いを知るためにも、自由に行き来し、出会うことがなにより大切だ。当たり前のことができなくなって、そのありがたみを改めて感じさせられている。

香港・横浜・バンクーバー

 

しあわせ写真

スティーブストンにあるムラカミ・ハウス

太平洋を渡って来た多くの日本人が、バンクーバーやその南の漁港スティーブストンで働いていた。スティーブストンでは、そんな日本人の中のある家族が暮らした「ムラカミ・ハウス」という施設を見学することができる。