旅の物語

永遠のカヌー

第7回 ムースにおける三角関係

オンタリオ州・アルゴンキン州立公園

カヌーに乗って湖面を進む僕の耳に、牛の鳴き声のような「ムモ~」という音が飛び込んできた。ムースのメスだ。繁殖の季節になると、ムースのメスはこんなふうに鳴いてオスを誘うのだ。

僕は以前、カナダの量販店みたいなところでこんな商品を見ていた。この笛を吹くと、メスのムースの鳴き声のような音を出すことができる。狩猟や写真撮影でオスのムースをおびき寄せるためのグッズなのだそうだ。しかし、こんなものに騙されてノコノコ出てきたとたんに「ズドン」というのも悲しすぎる気がする。

もちろん、僕はこんなグッズは持ってきていないし、使うまでもない。目の前では、角のない本物のメスのムースが「ムモ~」と鳴き続けている。

さすがは本物、その鳴き声につられ、森の奥の方から巨大なオスのムースがノソリ、ノソリと湖畔に近づいてきた。でかい、本当にでかい!名前の通りヘラのように巨大な角だ。壮年の男盛りのムースだ。この日、ランチの前に遭遇した小さな角のオスとはけた違いの迫力だ。

そんてことを考えていたら、午前中に見たアイツだと思う、あの若いムースがメスの鳴き声につられて本当にノコノコ出てきてしまった。つまりこれは1頭のメスに2頭のオスという、ムースにおける三角関係だ。それにしても角の大きさといい、アゴの下のヒゲみたいな毛の伸び具合といい、同じオスでも存在感がまったく違う。体の大きさもかなり差があるのがひとめで分かる。

出くわしたオスどうし、喧嘩が始まるのかと思ったのだが、別に何事もなかったかのように2頭のオスは並んで湖畔のメスへと近寄っていく。というより、この立派な角を持つ壮年のオスは、隣にいる若いオスをまったく相手にしていないようだ。視界にすら入っていないというか、表現を変えると、同じ土俵に上がっていないというか、単なる通りすがりの若いヤツ、みたいな扱いだ。

ついに湖畔に3頭が並んでしまった。自分が出した鳴き声の効果が気になるのだろうか、メスがうしろを振り返って2頭のオスの存在を確認している。「ムモ~」。牛みたいなその鳴き声の効果は抜群だ。それにしてもこんな光景はめったに見られるもんじゃない。一度に3頭も、しかもムースの三角関係が目の前で展開されている。

ただし、そう思っていたのは僕だけだったのかもしれない。当事者はというと、森の奥へと消えていくメス、当然のごとくその後ろをついて行く壮年のオス、そしてなんとなく離脱していく若いオスという構図になっていった。ムースのオスの優劣というのは、角の大きさや体格であっさり決まってしまうらしく、実際に喧嘩するようなことはあまりないと聞いた。最初から勝負は決まっていたのかもしれない。

ただし、勝ったとはいってもすぐに“結婚”できるわけではない。メスの繁殖準備が十分に整うまでの間、オスは何日も何日もメスのあとを追いかけなければならないそうだ。なんとなくその表情からして、「こっちも結構大変なんだよ」と言っているような気がしてしてきた。「男はつらいよ」といったところだろうか。

一方、2頭に相手にすらされなかった若いオスは、これまた気分転換が早いというか、どうやら食事をすることにしたようだ。水の中へと入っていき、好物の水草をモシャモシャと食べ始めた。ムースというのはこの巨体にもかかわらず、基本的には木の枝とか葉っぱ、それに水草とか、そんなものを食べているそうで、ムースの語源も先住民の言葉の「小枝食い」からきているという。

食べてる食べてる。カヌーをかなり近づけてシャッターを切っているけれど、よほどお腹がすいているんだろう、逃げる素振りはまったくない。ちなみに、ムースの肉というのは本当に美味しくて、それはもうビーフの比ではないんだそうだ。ただし、レストランで出てくることはなく、ハンティングで仕留めた人だけが食べられるものだと聞いた。だから、まずは冷凍庫にムースの肉を持っているという人と友達にならないことにはムースの肉を食べることはできないらしい。この若いムースのキョトンした表情を忘れた頃に、是非どなたかご馳走していただけないだろうか。ムースのステーキを一度賞味してみたい。
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シリーズ「永遠のカヌー」は2015年の取材に基いています。

しあわせ写真

立派な角を持つオスのムース

ムースの角はオスにだけはえる。そして「ヘラ」のような立派な角になるのは、それなりの年齢を迎えた、つまり「オトコ」のムースなのだ。