旅の物語

アルバータの物語

第10回 Right Land

アルバータ州エドモントン

「アルバータの物語」の次なる舞台は州都エドモントンだ。アルバータ州最大の都市、カルガリーが牧場経営から発展したのに対し、人口規模で2番目となる州都エドモントンは、小麦生産などを産業の基盤としてきた。

「アルバータの物語」の導入部と言うべき第1回のタイトルは、「Farm & Ranch」だった。Ranch=牧場のカルガリーに対し、Farm=農場に当たるのがエドモントンということになる。とはいえ、最初からカルガリーに牧場があったわけではないし、エドモントンだって、はじめから小麦の実る農場が広がっていたわけではない。

何もない大地を開墾し、小麦が収穫できるように、キャノーラ油の原料となるアブラナが咲くように、農場として整備してきた人たちがいたからこそ今日のエドモントンがある。ではエドモントンを「拓いた」人たちは、どこからやってきたのだろうか。

当時、カナダ政府はアルバータ、サスカチュワン、マニトバの「プレーリー3州」を開発するため、ヨーロッパから大量の移民を受け入れる政策を推進していた。移民募集の役割を担ったのが、カナダ太平洋鉄道(CPR)など当時の鉄道会社だ。鉄道会社はいわば国策を担い、ヨーロッパの各都市に移民募集のポスターを貼りまくり、宣伝カーを走らせたのだ。

鉄道会社は船も所有していたから、ヨーロッパ大陸からケベック・シティへ、あるいはモントリオールまで船で移民を運んだ。そこから先は鉄道の旅となる。募集に応じた移民の人たちをカナダ西部の「新天地」まで送り届けた列車は「移民列車」と呼ばれた。なんとも分かりやすい名前だ。
それにしてもポスターの文字を見てみると、「Right Man」のための「Right Land」とか、西部カナダの地に自分の「巣」をつくろうとか、なかなか魅力的な言葉が並んでいる。

ポスターだけを見ていると、既に開墾された農地が広がっていて近くには鉄道が走り、洒落たマイホームがあるように思える。決断しさえすれば明日からでも夢のような生活が手に入るという錯覚に陥っても不思議ではない。しかし世の中、そんなに甘いはずがない。
この写真はイギリスからの移民の写真。当時はロンドンの中心部にカナダへの移民を募集するオフィスが構えられていて、1900年にはたった半年で5000人以上のイギリス人をカナダへと渡航させている。

次の写真はロシアからの移民。厳しい気候の中で生き抜いてきた人たちという印象を受ける。もちろん、着ている服装に民族性が現れる部分もあるけれど、それにしても出身国によって醸し出す雰囲気がまるで違う。

次の写真は、カナダに渡ってきたばかりのドイツ人一家。彼らの真面目そうなことと言ったら、どうだろうか。
だから最後の写真、このカードに興じ、ギターをひき、タバコを加えているイタリア人移民は、ものの見事に民族性を体現してはいないだろうか。
まさに紳士といった感じのイギリス人に朴訥なロシア人、そして生真面目なドイツ人とのあまりの違いに、思わず「出来すぎだろ」と突っ込みを入れたくもなる。

さて、様々な国の人たちがアルバータをはじめとするプレーリーにやってきたのだが、その中でも開拓民として特に歓迎されたのがウクライナの人たちだ。カナダ政府の中にはこんな声もあったという。
「粗末な羊皮の外套をまとい、大地で生まれ、10世代も続く農民で、たくましい妻と半ダースの子供を持つ屈強な農民」
人を労働力としてしか見ていないようなひどい言い方だ。しかし、そんな偏見をものともせず、たくましくエドモントンの大地を拓き続けてきたのがウクライナの人たちだったのだ。(つづく)

※この記事は2015年の取材に基づいて執筆しています。

⇒〔続きを読む〕第11回 種と土

しあわせ写真

移民したその先に

カナダはかつて、「空っぽ」のプレーリーを耕してくれる人を集めるため、ヨーロッパで大々的に移民を募っていた。その時のポスターは、まるでプレーリーには楽園が広がっているかのような絵が描かれていた。