旅の物語

アルバータの物語

第11回 種と土

アルバータ州エドモントン

今、エドモントン周辺では、平らな大地と視界いっぱいに広がる空を目にすることができる。ただし、ウクライナの人たちがやってきた時、ここにはまったく違う景色が広がっていた。

当たり前のことだ。「さあ種を蒔いてください」と言わんばかりの土地など広がっているはずがない。ウクライナの人たちを迎えたのは、うっそうと茂る森だった。それを人の手だけで木を切り倒して畑にし、小麦を育て、ヨーロッパの「パンかご」と呼ばれるほどの穀倉地帯を生み出した。

ウクライナの人たちは大西洋を渡り、「移民列車」に揺られた末にエドモントンにたどり着くと、こんな林の中を歩きながら開墾に適した土地を探し歩いたという。
彼らが手にしていた布袋には、黒い土が入っていた。ふるさとウクライナの土だ。もう1つ、手のひらの中にあったのは小麦の種だった。

ウクライナの人たちは、ふるさとの黒土に似た土地にふるさとの種を捲こうと「土と種」を握りしめてエドモントンにやってきたのだ。
タイムスリップしたかのようなこの女性がいるのは、エドモントンにある「ウクライナ・ヘリテージ・ビレッジ」。1891年、ウクライナの人たちが初めてエドモントンにやってきた時からの暮らしの変遷を紹介するための施設だ。

初めは有志が手弁当で古い住居を集め始めたが、今では州政府が運営し、エドモントンのウクライナ系カナダ人の人たちが協力する形で施設が運営されている。それぞれの建物にこの女性のような人たちがいて、当時の生活を再現してくれている。びっくりさせられるのが、彼女たちが当時と同じようにウクライナ語しかしゃべらないということだ。さらに彼女たちは、この家の修繕をしたり畑を耕したり、といった仕事も担っている。もう芝居とは言えないぐらいの「本気度」なのだ。

失礼だけれど、それにしても何と粗末な家なんだろうか。エドモントンにやってきたばかりの頃、ウクライナの人たちはこんな土間に丸太を三角に組み合わせた粗末な小屋に住んでいた。屋根は、なんと「草ぶき」だ。屋根をふいている、というよりは勝手に雑草が生えているといった感じだ。

ウクライナ移民の人たちは、家族や親戚といっしょに大西洋を渡ってきたのだろう。なんとなくゆがんだ建物。屋根はやはり「草ぶき」だ。それにしても、「土と種」を手にこの地にやってきたウクライナの人たちは、騙されたと思わなかったのだろうか。あのカナダの鉄道会社が作った移民募集のポスターとはあまりにかけ離れている。

でも、「ウクライナ・ヘリテージ・ビレッジ」のDavidさんは、こんなふうに言っていた。
「祖国ではせいぜい5エーカー程度の土地を耕していた貧しいウクライナの人たちにとって、160エーカーもの土地を無償で提供してくれるというのは、新しい人生を切り開くには、十分魅力的だったはずです」
当時、カナダ政府は入植者に対して160エーカーの土地を無償で提供する、という政策を推進していた。

160エーカーは約65万平方メートル。彼らはいきなり、東京ドーム約14個分の土地を手に入れたのだ。
ヘリテージ・ビレッジには年代順に当時の建物などが配置されている。少し歩いていくと、ずいぶんと立派な木造の建物が見えてきた。1915年に建てられた家だという。もう屋根は「草ぶき」ではなくなっていた。

家のそばには穀物貯蔵庫のような建物もあり、その横でお母さんが棒を振るって麦を脱穀していた。エドモントンにやって来てから20年ほどが経過し、手の中にあった小麦の種が、ふるさとと同じ黒い土の畑からたくさんの実りをもたらしてくれるようになった。
あのポスターと現実との間にはずいぶんと違いがあったけれど、ウクライナの人たちはそれでも160エーカーの土地に希望を感じ、エドモントンを拓き続けたということだろう。(つづく)

※この記事は2015年の取材に基づいて執筆しています。

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しあわせ写真

ウクライナ移民

傾いた家に草ぶきの屋根。新天地を求めてやってきたウクライナの人たちは、家族みんなで黙々とカナダの大地を耕したのだろう。そして彼らの手によって、ウクライナの小麦の種がカナダに蒔かれた。ここから広大な小麦畑の第一歩が始まったのだ。