〔写真:摩周丸に展示されていた青函連絡船の模型〕
かつて津軽海峡を往復していた青函連絡船「摩周丸」。一般500円の料金を払って中を見学させていただくと、連絡船の模型が展示されていた。開いた船の後部から船底に貨物の車両を積み込んでいるのがよく分かる。
〔写真:模型の船内を横から見たところ〕
青函連絡船は人を運んでいただけではない。港で船内の線路と陸上の線路を連結し、貨物車両をそのまま船内に吞み込んでしまう構造だった。函館からは北海道の農産物など、青森からは本州のさまざまな物資を積んだ貨物車両が津軽海峡を渡った。海が荒れて連絡船が航行できない日が続くと北海道の物価が上昇したそうだ。
〔写真:摩周丸に付けられているJNRのマーク〕
青函連絡船は本州と北海道を結ぶ物流の大動脈だった。こうした船を「鉄道連絡船」という。陸地の線路と青函連絡船、ともにJRになる前の旧国鉄(日本国有鉄道)による運営だった。だから摩周丸にはJNR=Japanese National Railwaysのマークがついているのだ。これもある一定の世代より上の人には懐かしくてたまらないマークだろう。
〔写真:摩周丸の中で再現されていた席のない「普通座席」〕
摩周丸だったかどうか、もちろん憶えていないが、僕は数十年前に青函連絡に乗ったことがある。夜中に椅子席のみの夜行列車「急行八甲田」で上野駅を発ち、翌朝、青森に着いて青函連絡船に乗り込む。今度は椅子すらない「普通座席」に自分のスペースを確保し、バッグを枕にゴロゴロしながら津軽海峡を渡った。
〔写真:「ありがとう、津軽海峡」の文字がある古いポスター〕
1988年に青函トンネルが開業したことで、連絡船は貧乏学生を乗せることも鉄道車両を運ぶこともなくなった。片道およそ4時間もかかった津軽海峡だが、今は新幹線がものすごいスピードで海底を走っている。坂道を広く真っすぐにしたり、船で列車を運んだり、海底にトンネルを掘ったりと、先人たちは懸命に生きていたなあと思わざるを得ない。
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しあわせ写真
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貨物車両をのせた連絡船の模型
青函連絡船記念館・摩周丸に展示されていた模型。船体の後ろが陸の線路と連結し、船底に貨物の車両を積み込んでいる様子がよく分かる。津軽海峡を渡った車両は港に着いた後、また線路を走って物資を送り届けるのだ。