旅の物語

カナディアン・ロッキーを越えて

第6回 日本初の英会話教師

ブリティッシュ・コロンビア州、アルバータ州

ロッキーマウンテニア号は昨夜遅い時間にカムループスに到着したため、店が閉まらないうちにとバタバタ食事に出かけることになった。そうして選んだ店の名前は「オリエンタル・ガーデン」。中華と和食の両方を出す店だったが、甲冑など不思議な日本風ディスプレイが並んでいたので、中国人の経営なのだろう。迷わず中華をチョイスした。

カナダの旅ではいつも中華料理に助けられる。中華レストランはどの街にもあって、味に「ハズレ」はほとんどない。中国人がつくっているからに違いない。時々あるのだが、韓国人やベトナム人がつくる怪しげな和食とは大違いだ。
どうしてカナダに多くの中国人がいるのかについては改めて話をしたいと思う。さあ、きょうもロッキーマウンテニア号の旅が始まる。フレンドリーな女性乗務員が朝一番のコーヒーを注いでくれた。きょうもいい一日になりそうだ。

窓から眺めていると、この写真で見えるだろうか、畑の中から手を振ってくれている人がいる。
ロッキーマウンテニア号の旅では、何度も何度も同じような光景を目にしてきた。つくづくフレンドリーな国民性だと思う。
おかげで一層、気持ちよく朝食をいただくことができる。

僕が注文したのは「EXPLORER’S OMELETTE」。どこがオムレツなんだろうか、と不思議に思うほど贅沢な料理だった。
カリカリのスモークベーコンとソーセージ、マッシュルームにトマト、そしてジャガイモ。これらに脇を固められた主役のオムレツの中にはモッツァレラチーズが入っていた。贅沢この上ないオムレツだ。

いい気分で朝食を終えて2階に戻ると、そろそろ列車がクレイゲラキーに差し掛かるというアナウンスが聞こえてきた。1885年、大陸を東西につなぐ線路に最後の犬釘=ラストスパイクが打ちこまれた、あのクレイゲラキーだ。
今回の旅で最大のカギとなる撮影ポイントで写真が撮れなかったなんてことは許されない。念のため早めにスタンバイしておくことにした。
僕としては、あくまで「念のため」だった。

階段を下りてオープンデッキに出たところで、少し先の方から見たことのある建物が近づいてきた。それはあっという間に僕の後方へと流れて行った。すぐに振り返ってシャッターを押した後、ファインダーから目を離して肉眼で確認する。間違いない、紛れもなく日本を発つ前にYouTubeで見た、クレイゲラキーのインフォメーションセンターだ。
すると、僕の背後にはもう絶対に外してはいけない撮影ポイント、ピラミッド型のラストスパイクの記念碑があるはずだ。

急いで振り返って前方に目をやる。当然あった。しかもすぐ目の前に。あわててシャッターを切った。カナダ史において重要な意味を持つこの記念碑には、カナダ10州それぞれの特産の石がはめこまれている。しかし、そんなことを確認する余裕はもちろんない。おまけに記念碑の前に立ちはだかって、ロッキーマウンテニア号にカメラを向けている人までいる。どうやら動画撮影しているらしく、動こうとしない。よりによって記念碑の前に立たなくてもいいのに。なんとも残念な写真になってしまった。
 

「カナダ史で最も有名な写真」と言われるあの光景に思いを巡らせる想定だったのだが、余韻も何もないまま、ラストスパイクとの出会いはあっという間に列車の後方へと過ぎ去っていった。
もう少し早めにアナウンスしてくれれば、などと「予期せぬ」展開に僕は少々動揺していたのだが、実はこのラストスパイクも「予期せぬ」出来事のおかげで実現に至った経緯がある。
大陸横断鉄道の工事費は当初予定をはるかに上回り、カナダ太平洋鉄道(CPR)は建設してきた線路がつながる前に破たんの危機に瀕していた。

しかし、そのCPRを結果的に救ったのは「メイティ(メティス=Metis)」と呼ばれる人たちによる武装蜂起だった。彼らはヨーロッパから来た白人男性と先住民女性の間に生まれた混血だ。バッファローを追って暮らしていたメイティにとって、カナダ政府が鉄道を建設して白人をどんどん入植させることは生きる場所を奪われるに等しい。だからこその武装蜂起だったのだが、メイティを鎮圧した軍隊が鉄道で運ばれたのを受けて鉄道必要論が強まり、頓挫していたCPRへの政府融資が実現する。メイティの蜂起は皮肉にもCPRを救い、鉄道建設を後押しする結果となった。

メイティの武装蜂起は1869年に続き2度目だった。その間に約15年の月日が横たわっているが、メイティの置かれた状況は改善されるどころか、「生きにくさ」が一層増していたのだろう。その「生きにくさ」が、日本とカナダに不思議な結びつきを生んだ。蜂起よりずっと前の1848年、アメリカの捕鯨船から、ラナルド・マクドナルドというメイティの青年が下船し、突如、北海道の利尻島に上陸したのだ。偶然ではない。メイティとしての「生きにくさ」の中、先住民と日本人に人種のつながりを感じたのか、日本でならメイティも穏やかに暮らせると思ったのか、とにかく彼は明確な意思をもって日本を目指したのだ。

鎖国下の日本に侵入したラナルドは長崎に護送され、強制送還までのわずかな期間に日本人通詞に英語を教えた。その時の通詞が1853年、ペリーの黒船来航時に通訳に当たったことから、ラナルドは日本初の英会話教師とも呼ばれている。
苗字に「Mac」とか「Mc」がつく人はスコットランドやアイルランドの出身だ。ラナルド・マクドナルドの父もスコットランドから北米大陸にやって来た。メイティが住む場所に入植してきたのもスコットランド移民だ。牧羊業の拡大で土地を奪われた貧しい農民を救うため、スコットランドからカナダへの移民が推進されたのだ。
“coast to coast”。大陸を東西に結ぶ線路は、何事もなかったかのようにロッキーマウンテニア号をカナディアンロッキーへと運んでくれている。
列車の旅という「今」を心から楽しむために、ほんの少し、カナダの地で起きた様々なことについて関心を寄せてもらえればと思っている。
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※シリーズ「カナディアン・ロッキーを越えて」は2015年の取材に基いています。また一部でロッキーマウンテニアから提供を受けた写真を使用しています。

しあわせ写真

最上級の「ゴールド・リーフ」

ロッキーマウンテニア号の客車の中で、最上級の「ゴールド・リーフ」。2階の天井は一面ガラス張りで、1階はまるでレストラン。極上の時間を過ごさせてくれるのだ。