旅の物語

カナディアン・ロッキーを越えて

第9回 魔法の時間

ブリティッシュ・コロンビア州、アルバータ州

レイク・ルイーズの「駅」を守り続けるジェリー・クックさんと出会った夜、僕は「ディアロッジ」というホテルに宿泊した。

外壁も内装も木の温もりを感じさせる造りで、カナディアン・ロッキーというこの土地に見事に溶け込んでいる。
山小屋のような趣の部屋の窓からは、流れる水の音が一晩中聞こえていた。水はレイク・ルイーズから流れてくるのだろう。だから翌朝、まだ薄暗いうちに目を覚ますと、僕の足はごく自然にレイク・ルイーズへと向かっていた。

もちろん、きのう駅に着いた後で、夕暮れのレイク・ルイーズを見に来てはいた。ただしその時は残念ながら、湖畔はたくさんの観光客でごった返していた。
でも、けさは最初から何か違うものが見られる気がしていた。
ディアロッジから湖まではほんの数百メートルの距離だ。水の音に誘われるように、湖畔のホテル「シャトー・レイク・ルイーズ」の横をすり抜けていく。

湖を前にした瞬間、「魔法の時間」が始まった。目の前に現れたレイク・ルイーズは波ひとつない鏡のような湖面に、左右の山々、そして雪を頂いたずっと奥の峰を鮮やかに映し込んでいた。
「ロッキーの宝石」の呼び名の通り、その湖は両方の手のひらで包み込んで、大切に持って帰りたくなるような魅惑的で、可憐な美しさを見せている。

もちろん早朝とはいえ、周囲には数人の観光客がいたが、きのうのザワザワした空気とは打って変わり、そこにいるすべての人が静かにこの光景に見入っていた。
先住民は狩猟の場として、また神秘的な場所として古くからのこの美しい湖の存在を知っていた。彼らのガイドで初めてヨーロッパ人がこの地を訪れたのは、1882年のことだという。
はじめはその美しい湖面の色から「エメラルド・レイク」と呼ばれていた。それがのちにレイク・ルイーズに変わった。
イギリスのヴィクトリア女王の四女で、カナダ総督ジョン・キャンベルの夫人、ルイーズ・キャロライン・アルバータから取られた。

今もカナダの国家元首はイギリス国王であり、実際の政治は首相(総理大臣)が取り仕切っている。しかしエリザベス女王は普段イギリスにおられるので、その名代として「カナダ総督」が置かれている。
大英帝国を最も繁栄させたヴィクトリア女王の四女、つまり王女様を妻にしたおかげで、ジョン・キャンベル氏は国家元首たる「カナダ総督」になることができた。
ちなみにカナディアン・ロッキーがある「アルバータ州」も、ルイーズ・キャロライン・アルバータ王女の名前からとられている。
さて、「魔法の時間」はそう長くは続かない。そのうち大勢の観光客が「ロッキーの宝石」へと押し寄せてくるはずだ。王女の名を持つ湖に別れを告げ、「次なる魔法」を見にいくことにしよう。

レイク・ルイーズから車で15分ほどのところに「スパイラル・トンネル」という興味深い場所がある。
蒸気機関車に限らず、列車はそもそも急こう配の坂が大の苦手だ。だからジグザグに登る「スイッチ・バック」などということが行われる。当然、カナディアン・ロッキーを越える蒸気機関車にかかる負担はとてつもない大きいのだ。
この負担に耐え切れず、機関車の上についているお釜をひっくり返したような部分が割れて吹っ飛んだ、といった事故が相次いだ。

勾配を少しでも緩くするため、山中をくねくねと8の字状に掘ったトンネルが「スパイラル・トンネル」なのだ。
ここにカナダ名物の長い長い貨物列車が差し掛かると、展望スポットに設置されていたジオラマのように、先頭車両が下から出てきているのに、上の方ではまだ最後尾がトンネルに入っていないという不思議な光景が出現する。
とは言っても、旅客列車と違って貨物列車はいつやってくるか分からないので、そう簡単にお目にかかることはできない。ただし、僕にはツキがあったようだ。そう遠くない距離から、貨物列車の音が響いてきたのだ。

望遠レンズでトンネルを狙ったものの、まだ朝方のために何やらガスっぽい。不鮮明ではあるが、それでも先頭車両がトンネルに向かっていくのを捉えることができた。
それからどれぐらい待っただろうか。ちょっと待ちくたびれたな、というぐらい時間が過ぎたころ、先頭の機関車が下のトンネルから顔を出した。そして確かに、上ではまだ貨物列車の白いコンテナがトンネルへと向かっている最中だった。

僕には「ロッキーの宝石」と同様、この光景は「魔法の時間」なのだが、こちらの方は何ともユニークで、ニヤニヤしてしまいそうな魔法だ。
そして人間というのは、実に健気(けなげ)な生き物だと思う。重機のない時代に、数えきれないほどの人の手で山が穿たれ、くねくねとした長い長いトンネルが掘られた。だから今、こうしてニヤニヤしながら「魔法の時間」を楽しむことができる。
人間をこれほどまで健気な生き物にしたのは、どこかにいる神様なのだろうか。もしかすると、人間がこのような存在であること自体が、本当の「魔法」なのかもしれない。
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※シリーズ「カナディアン・ロッキーを越えて」は2015年の取材に基いています。また一部でロッキーマウンテニアから提供を受けた写真を使用しています。

しあわせ写真

「ロッキーの宝石」レイク・ルイーズ

カナディアン・ロッキーの中でも屈指の人気スポット「レイク・ルイーズ」。訪れる人も多く、時間帯によっては静かにその美しさを味わえないことがある。可能であれば早朝、まだ人が動き出す前に、「宝石」に会いに行きたい。